2022.06.03 #3 日常生活におけるピースメイキング

金曜日。

朝は9時くらいに起きて『ピースメイカー』の最終話を見たよ。最高だった。

変にウエットにもなり過ぎず、クリフハンガー戦法にも、イースターエッグ商法にも中指を立てるような、素敵なドラマだった(最後にアイツらがギャグのようにちょろっと出てくるのも蛇足だったのでは?)。最終回のピースメイカー、ビジランテ、ハーコートの攻め込みシーンなんてもうたまらん。やっぱりジェームズ・ガンといえば爽快感のあるメチャクチャな戦闘シーン。あのビジランテの剣捌きの感じ見ると日本的なサムライ・ヒーロー系もやろうと思えば結構いけそうだな。あと終わり方としてクリスが父殺しによって、トラウマを完全に克服し切るというより、殺しても殺しても付き纏ってくるトラウマと「共に生きる」という着地になっていたのが、非常に現代的だし、ガンはやっぱり心理的な「弱さ」というものをわかっている監督だなぁと思った。トロマ的な悪趣味やバイオレンス、過度な冷笑と雰囲気ぶっ壊しギャグはその「弱さ」からこそ発現するわけで。まぁバタフライのボスの着地がああいう形になるっていうのも意外だった。多分このドラマに完全なる「ヴィラン=敵」みたいなものは存在しなくて、それぞれに弱さがあり、それぞれにヴィラン性とヒーロー性がある。ピースメイカーも、ビジランテも、アデバヨも、マーンも、エコノモスも、ハーコートも、ホワイトドラゴンも、ジュードーマスターも、アマンダ・ウォラーさえも。だから、みんなでダッセェ踊りを踊るんだよ!!!!(OP)かっちり線を引くのは難しいねっていう温度感はガンなりのPC的、キャンセル・カルチャー的なものに対するアンサーだと思うし、結局時代感を表すことにもなってると。まぁただ「どっからどう見ても悪い奴は殺す!仲間を傷つけるクソ野郎は殺す!でも、間違って殺しちゃったらごめんね😅」みたいな大味な感じはいいよね。「人間的な繋がり」や「許しの美徳」といった重要なポイントを結果的にしっかり提示することにも繋がってるし。きっちりきっちりどこまでも果てなく「社会」に盲目的に加勢していく現代的なリベラル観に対して、本当の「社会」、すなわち自分の身の周りをきっちり守ることの尊さと難しさを提示している(これはケンドリックの新譜的なテーマでもある!)。最初は覚えにくい名前のやつ多いし、ガンがドラマで悪ふざけしようとしてる変わったドラマだなぁと思ってたけど、意外とガン本流のいいところを出しつつ、現代へのアンサーを、イシューと絡めて語るのではなく、ギャグも交えてサラッと見せてくれる手際が素晴らしいドラマだった。

ありがとう!!ジェームズ・ガン!!!

ジェームズ・ガンの好きなところは本質的な「弱さ」を持つ人間がいることをしっかり理解し、その人々を描きながら、その弱さが人にとってマイナスポイントではないということをしっかり見せてくれるところ。ある弱さは人にとって全面的な弱さになるのではなく、他の面で強さとなって人を支え続けてくれる、歩かせ続けてくれる要素でもあるということを感じさせてくれるところ。それが「弱さ」の肯定というより、「ある一つの弱さ」=「人として弱い」という思い込みの否定という感じ。弱さを抱きしめてくれるとかいうただ優しいもんにとどまってるわけじゃなく(本当の意味での優しさと言えるか分からないが)、ある面で「弱い」からこそ他の面で「強い」こともあり、それは尊いことだけど気をつけなければいけないこともあるということを教えてくれる。

醜くても、汚くても、弱くてもいい。しかし、それにもある種の責任が伴うと。だからこそ「俺たちの」ジェームズ・ガンなのだ。

 

テレビ千鳥「1つだけ花やしき」を見てから、昼飯。いっつもの俺風コンソメカルボナーラ(卵パスタ)を、poplifethepodcast『ユーフォリア』回を聴きながら作る。麺が10分茹での太いやつで、ちょっと硬めになってしまって、完璧ではなかったがまぁ合格点。

 

皿を洗って昨日の分からこの文を書き始める。

突然外が暗くなり、豪雨と雷。洗濯物をしまい、ベットに横たわる。

 

最近思うのが「Z世代」というワードを使ってくる奴らに対する全面的な不信感である。このワードが上の世代が俺ら世代に「無力さ」を押し付けるためのものになってしまうのではないかということ(「お笑い第七世代」というワードの使い捨て感に対する印象と近い)。

上の世代が解決するべき(しておくべきであった)社会問題に対する取り組みを、若者を旗振り役として立てて推進しようという動きがよく見られる。これには、成果が出ないことのリスクに対する上世代の自己保身、若者を前に立てることでぱっと見健全なことが推し進められているように見えるという外見的な爽やかさ、かつ若者層の支持、消費の獲得などの利点がある。その隠された利点のもと、「Z世代」はいいように使われる。

そして、もちろん今の日本で、変革は難しく、改善・向上があるとしてもカタツムリのようなとろいペースである。当然勝ち目のない戦いに利用されたZ世代は確実に「失敗した世代」としての烙印を押され、上の世代が背負うべきである責任を転嫁され、早々と次世代の仮想敵になってしまう。

そして、まず人口比率の少なさと貧困・格差という問題を全員が持つ世代の中で、世代を背負うポップ・スター、オピニオン・リーダーはZ世代の要請の中からはおそらく誕生しない(というより、誕生できない=若者の支持をある程度得たとしても、若者層が少ない「日本」自体に影響力を持つ存在にはなれない、かつインターネットによる各バブルの分化、貧困や無料コンテンツの充実による購買力の不足ゆえ統一的な支持を得るスター/リーダーの誕生は難しい)。それゆえ、上世代の要請のもと祭り上げられ、若者に暗に押し付けられるスター/リーダー(本人も支持層も上世代に祭り上げられている事実に気づかない)をあたかも自分たち世代が生み出したスーパースターだと思い込んでにんまりと笑い、そのスターに盲目的についていくしかなくなってしまう。

世代としてさっさと消費されてしまう前に俺たちが「Z世代」なんていう言葉を使わないようにしなくてはいけないよ。

 

お前が嫌いな言葉は、まずお前が使わないようにしろ。それが世界を変えるってことなんだ。

 

今、スピード感に乗り遅れるやつは、死んでいっちまうクソみてぇな世界なんだぜ。

 

ピース✌️

 

スーパーカーを聴きながら寝た

 

〈今日の曲〉

Wig Wam「Do Ya Wanna Taste It」

スーパーカー「YUMEGIWA LAST BOY」